バキマイストーリー

自分の人生を振り返りながら、苦しかった事、辛かった事、嬉しかった事と向き合って綴って行きたいです。

マイストーリー(僕が生まれるまで

僕は1981年フィリピンのパサイ市で産まれた。

母はフィリピン人で父はアメリカ人だそうだ。

 

母は当時フィリピンの大学を卒業して日本の沖縄へ労働ビザで働きに出ていた。

母が働くのはアメリカ人基地の中にあるPUBだったそうで、そこで出会った兵隊の1人と恋に落ち僕を授かったそうだ。

僕自身は、母の持っている父の写真でしか観た事がない(1枚は兵隊の格好をしたのと1枚はビーチで母と並んでいる姿の父)

僕のアメリカ人の父は当時家族を持っていたそうで母の妊娠を知った彼はお店の他の女の子達の助言等も受けて、俺と母を置いてアメリカへ帰って行ってしまいそれきりだ。

その話を聞いて俺は幼いながら父な対して嫌悪感と恨みや怒りの気持ちを抱いたのを覚えている。それと同時に俺の中で常に父親の陰の様なモノを求める行動が始まっていたんだと思う。

就労ビザが切れお腹に俺を抱えて再びフィリピンに戻った母が再びビザを取ろうとするも妊娠中だった為にビザが降りずフィリピンで俺を産む決意をしたそうだ、

しかし、当時のフィリピンでアメリカ人の子供を身籠った事に母のお母さん俺の婆ちゃんは凄く反対をして堕胎を進め、、でも当時のフィリピンでまともな病院等はもちろんない、裏の堕し小屋の様な所へ母は連れて行かれ並ばされたそうだ。

そこで行われていたのは、少し大きなオタマの様な掻き出す道具で産まれる前の胎児を掻き出すと言う何とも聞いているだけでグロテスクな映像だった、、俺はその話を聞いて思わず顔を歪めてしまった。

母は、自分の番がくる前の女性の泣き叫ぶ姿を見て恐ろしくて暗闇の森の中を走って逃げたそうだ…そのまま信頼できる親戚の家にかくまってもらったそうだ。

それから母の田舎であるイロイロシティからマニラのパサイシティにいる親戚の家を経て数ヶ月は母はフィリピンの酒場で臨月まで働きながら、その親戚の家で破水を迎えたのだが、、もちろん病院で産むなんて時代ではなく産婆さんを呼びに親戚も外へ出なきゃならなくインフラや通信手段が整ってないマニラでさえ往復で1時間以上掛かるとの事だった。

待って居られなかった母は1人で俺を産み落とす事に、、力んだ時に俺が勢いよく飛び出し紫色になってグッタリしていたそうだ(汗)すぐさま母は両足を持ち逆さまにし刺激を与えられた俺は元気な産声をあげてこの世に性を受けた。

俺は多くの人の支えと努力で命を授かったのだった。