バキマイストーリー

自分の人生を振り返りながら、苦しかった事、辛かった事、嬉しかった事と向き合って綴って行きたいです。

母の誇りと僕の日本来日。

母は俺を産んで直ぐにまた日本は働きに出たそうだ。

その間は俺はフィリピンの親戚の元で育てられて居た。

その時の記憶が少し残っている。

俺がゲージの中に居て台所の方を見ている映像が今でも頭の中に残っているので書いてみた。下記画像

母に話したら恐らく1歳半くらいの時の記憶だと言っていた。

フィリピンという国は外貨を稼いでGDPを稼いでいると聞いた事がある。2023年現在のフィリピンはリゾートカジノ等で国内でも稼ぐ様にはなって来ているらしい(余談である。

母は12人兄妹の3女にあたる。当時フィリピンの子供達は労働力である事が多い中で母は学校に行きながら家を手伝ったそうだ、そしてそのままフィリピンの大学を卒業する迄になる、家族の中でも大学まで出れるのはほんの一握りでしかない。

フィリピンでは大学まで出られると、その先に保証される物が多いのだろうが公務員であっても日本円で1ヶ月6万円足らずの世界(今はもう少し上がっているとは思う)そんな額じゃ家族全員は救えないと思った母は日本に働きに出る事を家族の中で唯一やってのけたのだ。

母は勤勉な人間だ、その意思は俺にも受け継がれていると思う。外国人の女性が1人異国の地で働くと言う事がどれほど過酷なのか俺には計り知れない。

日本語が話せなかった筈の母は日本語をたくさん勉強し、字の勉強も俺が小学生の頃迄していた姿を見かけた事があったくらいだ。

そんな母が変わらず沖縄のアメリカ基地PUBで働いている最中に知り合ったのが沖縄に住む日本人男性(後の義理の父親になる人である。

当時、その義父には家族が居て子供も3人全て成人まで育て上げて居た。(後にそのうちの1人が家へ乗り込んで来るがそれは又先のお話。

なんと、その沖縄の長男であるはずの義父は自分の家族を手放し実家との縁を切り、母と俺を助けると言う選択と決意をした。(子供の俺はそれを聞いた時に何も感じられなかったし、むしろ後に乗り込んでくる面倒な義理の兄と共に恨みの対象にしか思えなかった。

これは余談だが後に大人になって多くの文献に触れて知った沖縄の長男の存在はとても重要だと言う事を。

 

そして俺は2歳になる前にフィリピンに迎えに来てくれた義父と母とで大事に守られる様にして日本に来日する事になる。