バキマイストーリー

自分の人生を振り返りながら、苦しかった事、辛かった事、嬉しかった事と向き合って綴って行きたいです。

スポットの恩人達。

思い返すと僕も多くの人に助けられて来たとは思う。

思い出せる範囲で書いていこうと思う。

1.隣人のお姉さん。

僕は721号室に住んでいた。その隣の722号に住むお姉さんは、どんな顔だったかはもう覚えていないけれど、とても胸がデカくて妖艶な雰囲気だったのを覚えている。

UR住宅に1人で住んでいるくらいだから割と良い仕事には就いていたのだろうと思う。

彼女と初めて会ったのは小学3〜4年生頃だろうか?僕は鍵っ子だったのだが、首から下げた鍵を良く無くして家に入れない事がよくあった。(当時はケータイがまだ無かった

そこで玄関の前で待ちぼうけしていると、隣のお姉さんが帰って来て僕を横切らずに声をかけて来てくれた『お家に入れないの?』うん、と僕が頷くとお姉さんの家に招き入れてくれた。

似た様な間取りなのにお姉さんの部屋はとてもシンプルでオシャレで大きな水槽に熱帯魚や水草がとても綺麗なのを覚えている。

なにをして過ごしたのかは全然覚えていないが、ご飯を食べさせて貰った記憶がある。

それから多々お世話になり、うちの母とも仲良くなり、お姉さんが鍵を忘れた時など母がベランダからお姉さんの部屋に侵入して扉を開けた事もあったし、お姉さんも母の真似をしてくれる様になった。

とても優しいお姉さんだったけど、ある日引っ越して行ってしまって泣いたのを覚えてる。

2.宗教の叔母さん

母がある時クリスチャンからとある新興宗教にハマっていた時期があった。

母もきっと不安だったんだろう。俺もよく日曜日に山奥の寺院に連れて行かれたもんだ、

その宗教の教え親の叔母さんがいつも優しくしてくれたのを覚えている。(お金の為なのかも知れないけど)僕にはお金のやり取りを当時見ていないから何とも言えないけど、

中学の頃だと思う、母に少しゲイじゃないかと疑われた事があって凄く喧嘩になった。俺はゲイを隠す為、確か酷く母を責めた記憶がある、母は泣いてしまいパニックを起こし死のうとした。それを止める為に、叔母さんに電話して直ぐに飛んできてくれた叔母さんが母をなだめてくれたのだ。

その後、彼女は俺にいった。

『綺麗な花を見て綺麗だと思う事は普通の事』と、

その言葉がその先どれだけ俺の孤独なゲイ人生を救ってくれた事か、

でも、暫くして母はまたクリスチャンに戻り叔母さんとの関係は終わったようだった。

 

他に大人でいたかなぁ?ちょっと思い出せないけど書いて行くうちに思い出したら書こうと思う。

 

愛猫の死を乗り越えて、

今も、思い出せない部分や削り落ちたように忘れてしまっている事も沢山あるけれどブログを書いていくうちに忘れてはいけない、忘れたくない筈の大切な事を思い出した。

過去に少し触れた事があるが、

それは家族でもあり、兄弟でもあり、ずっと1人で寂しい僕を支えてくれた最愛の猫の“クロ”である。

クロは3年生頃に僕が学校帰りに拾って来た名前の通り真っ黒なネコだ。

少し長いかぎしっぽの子猫だったクロは、凄く甘えん坊で毎日の様にベッドの中に潜り込んで来て僕達は直ぐに仲良く、それ以上に愛情の様な気持ちが芽生えていてとにかく大好きだった。

たまに機嫌が悪いクロと喧嘩したり、でも仲直りしたり、いつも2人でテレビを見たり、ゲームしてる俺の股の間で寝ていたり、ゴロゴロして来たり、ペロペロ痛い舌で舐めて来たり、朝は目覚ましが鳴ると起こしに来てくれて、夜1人で怖くて寂しくベッド毛布の中で動けない時は「クローー!どこー!!!」と呼ぶと「ニャ〜」っと言って布団の中に入って来てくれるから、クロを抱きしめながら泣いていると涙を舐め取ってくれて、お母さんが居なくても夜1人でも寂しくなかった。

そんなクロと週末前に、喧嘩してしまった。

それはきっと些細な事だったと思う、クロの態度が気に入らなかった僕はクロに噛み付いた、そしたら顔を引っ掛れたので「もう知らない!クロのバカ!」といって僕は友達の家に泊まりに行った。

それから僕が家に帰って来たのは日曜日の昼過ぎだった気がする(夕暮れでもなかったし、すごく日差しが強い時間帯でも無かったのを覚えている。

僕がいつも通り、首からぶら下げた鍵で家に入るとクロが出迎えてくれなかった。(ん?おかしいな、、)いつもなら必ず飛び付いてきて、僕に「ただいまお腹空いたよ〜」てなふうに足元に纏わりついてくれるのに、

「クロー!ただいまー!どこ〜?」僕は部屋中クロの名前を呼びながら探していたら、凄く胸騒ぎがして、、(まさか、、やめてよ、、、思い違いであって欲しい、、)そう思って僕はベランダに向かいヘリを登って下を見下ろそうとした。

クロは時折ベランダに出ては、そこを歩いていたり隣のベランダに行ったりしていたんだ。

僕の住んでるマンションは14階建で、僕はその7階に住んでいた。

ベランダのヘリをよじ登り下を見下ろした。

すると、真下には特に何もなかったが視線を少し左の方に向けると黒い塊な様なものが寝そべっていたのが分かった。「クロ!!!」僕は思わず叫んで直ぐに家を出てマンションの一階へ向かった。

ベランダは大通りの側面に面していて、寺に抜ける脇道になっていた、僕のマンションの2階にはスケートリンクがあって送迎バスが停まっている。

3階に雨避けの様なコンクリート部分があり、その少し進んだ片隅でクロは寝そべっていた。

きっと真下に落ちた時は、まだ生きていたんだと思う…そこから少し足を引きずって歩いたんだろう。

僕は登れる場所からコンクリートの部分へ這い上がって横たわるクロを抱き上げた。、クロはグッタリするどころか硬くなって眼は閉じていた、前足が折れていたのか少し曲がるくらいだった。

僕はクロを抱きしめて泣いた「ごめん、クロ、寂しかったよね、痛かったよね、助けてあげられなくてごめんなさい、きのう噛み付いてごめなさい」喧嘩別れの様な形になって僕は酷く後悔したのを覚えている。

きっとこの時から僕は人一倍大切なモノの命が失われる事に怯える様になったんだと思う。

後悔や罪悪感を誰よりも抱えやすいアディクト(依存症者)だったんだ。

それから僕は、気がつくとクロを抱き抱えたまま自分の家に戻った。

途中マンションの誰かが心配して声を掛けてきた気がしたけど僕はそれどころじゃなかった。

硬くなったクロを僕はリビングテーブルの上に毛布を引いてクロを暖めながら考えた、

僕はアニメやゲームが好きな子供だったので、もしかしたら蘇るんじゃないかとすら期待をしていたし、神様が助けてくれる、だっていつも母とお祈りしているし、

もう頭の中はどうしていいのか分からず、ひたすら泣いていたら母が帰って来たようで「バキ!どうしたの?!」と、クロを見て母は何やらいってたが僕は母の次の言葉に凄く怒った。

「また飼えばいいじゃない」

(この人は何をいってるんだ?)

「クロの代わりなんかいないよ!!」と僕は更に大泣きをした。

(クロ…大好きなクロ…本当に死んじゃったんだね、これでお別れなんだね、)そう思うと僕は一層悲しみに暮れていった。

ようやくクロの死を受け入れてクロの首輪を外して僕は左腕にそれをつける事にした。

それからクロは母が火葬場へ持って行ってくれた、共同火葬だったのでクロの灰はもらえなかったけど形見の首輪はずっと付けていた。

それを付けて学校へも行ってたからバカにする奴もいたけど、皆んなにちゃんと説明してた記憶がある。

クロが死んでからも、何故か知らないけど夜1人でいる時にクロが側に居てくれている気がした。

それは僕が中学に上がるまで続いてある日、ふと黒い影が消えたんだ。

僕が辛い小学3年生〜6年生を支えてくれたクロ。

クロのお陰で僕は寂しい夜を何度乗り越えられただろうか。

クロのお陰で僕は今すごく素敵な人と出会えて幸せだよ、本当にありがとう、そしてクロも生まれ変わっても幸せになって欲しい。

 

6年生〜初めての精通。

6年生になると僕の家では色々なことが同時に起きていたと思う。

1991〜1993年この頃日本ではバブルの崩壊が始まっていて、父のやっているマイホーム販売は大不況の煽りを受けていた、

同時に母も独立してママとして囲碁スナックを経営していたが客足は減って行った。

女性を家に連れ込んで俺の部屋で同棲していた義兄は妊娠させていたし、

みんながみんな大変で家の中はギスギスしていたから僕は益々家に帰るのが嫌なった。

母も外で歳下の彼氏(店のお客様)を作り家にあまり帰ってこなくなった、そうすると父の体罰はより強くなる。

この頃あまり学校へも行かなくなっていたけど、学校から先生や友人が電話があり渋々行ったりもしていた。

ほぼ毎日のように、海堂の性処理をしながら21時ごろに家へ帰るが家では義兄と女が居るのでバツの悪い思いをするのが嫌だった。

週末になれば皆んなで泊まれる友達の家に行って朝までゲームをしながら過ごして生き抜いていた。

気がつくと、

出産を迎えたのか、義兄と女性は家を出て何処かで暮らしだしたらしい(恐らく小5の時に孕っていたのだろう)

再び、1人で部屋を使えるようになった。

家は、ほぼもぬけの空だった。その為、母の部屋にあるエロ本や大人のおもちゃを使って自慰行為をする様になった。

母はスナックで働いている為、多くのネタ道具をたくさん持っていた。ペニスの形をしたオブジェクトや女性器を模したグッズ、ピンクローターやら沢山なものが棚に飾ってあったり、引き出しの中に閉まってあったりした。

中でも無修正の海外のエロ本が僕にとってはとても刺激的だったのを覚えている(特に男の物凄くデカいペニス)しかし、そのモノの位置がズレたりしたらバレるんじゃないかとか、急に帰ってくる事もあるし、父がいる日もあるので、そんなしょっちゅうは利用できなかった。

とある日、

僕はいつも通り自分の部屋で自慰行為をしていた、小学生の僕のペニスはまだ剥けてなくてやり方は枕に擦り付けたり、指で裏筋だけを激しく擦ったり、お風呂で強い水流を当てたり、掃除機で吸って振動を作り出したり、ローターを当てたりしてやっていた。

オナニーの仕方なんて誰からも教わらなかったし、海堂はいつも俺のお尻で素股をする様な形で擦っていたし、、僕のペニスは剥けていないから、握って上下に扱こうとすると皮が引っ張られて少し痛かったので怖くて出来なかった。

その日は指で裏筋を擦ってオーガズムまで行こうとした、、そしたら何か奥から熱く込み上げてくる感覚に襲われたのだ。

僕は直ぐにトイレへ移動してそれを続けた。

そしたらオーガズムと同時に精子が出たんだ。

それが僕の初めての精通だったと思う。

海堂はとっくに来ていた気がするので、、3月生まれの僕が少し遅かっただけなのかもしれない、

でも僕は一度たりとも海堂の前や他人の前で精子を出した事はなかった。

物凄く恥ずかしい事をしていると思っていたし、

男同士でそう言う行為をする事に周囲と自分は何か違うと思っていたんだ。

そんな事を誰にも言えずにずっと1人で抱えて子供の頃を過ごしていた。

 

 

 

 

 

 

夢見る子供達と多くの挫折(後編

走り高跳びを選んだ。

そう、僕は走り高跳びを選んだんだ。

何故なら走り幅跳びも物凄く体力を使う為、何本も飛ぶ事が出来なかった。

顧問の先生は僕のスタミナのなさと跳躍力を見越してくれた。(顧問の先生は誰だったか全く覚えていない、、

それに僕は幼稚園から3年生頃まで女子達とゴム飛びをよくやって居たし、フィリピンでも母とやった記憶があるし母も跳躍運動が得意だった。

だから自然と走り高跳びに馴染みがあったんだと思う。

ただ、うちの小学校はベリーロールを推奨せず挟み飛びだった。

5〜6年生で高跳び選手として区大会に出られるのは1M25cmを超えられる選手だけだった。

もちろん僕はそれを裕に越えられる選手だったけどライバルが居て代表争いをする事になる。

そのライバルは友人でもある鷲尾と言う。

鷲尾は将来スタントを目指しスタントマンとして映画出演を経て今は忍者村で忍者として自分の夢を叶え活躍し続けている。

ある試合の1週間前、

僕は体調不良なのか部活を暫く休んでいたみたいで、『代表選抜があるから出てこないか?』と先生に言われ顔を出したんだ。

グループ活動が昔からすごく苦手で、多くの人の中で何かを取り決めて行ったり考えを出し合ったりが不得意で仕方がなく、すぐにグループを離れ1人になりたがってしまう癖は今も変わっていない。

そこでは皆んなが記録を出しあっていてトップが1M28cmを飛んでいた鷲尾だった。

そこで後からやって来た俺が25cmと28cmを一瞬で飛んだ(あれ?なんか今日は身体が軽い、どこまでも飛べる気がした)

先生が『30cmにチャレンジしてみようか?』と言う事でみんなが見守る中トライすると簡単に跳べてしまった。

しばらく練習していなかったし体力も余っていたのだろうか?

先生がもう一度と言って僕は又助走をつけて思いっきり地面を蹴って跳んだ。

この時程ジャンプをして気持ちいいと思った瞬間はなかったと思う、その後マットに落ちる感覚も含めて今でも覚えてる。

その瞬間、拍手が起こり先生が近寄ってきてこう言った『実は今のは1M32cmなんだよ』と、

これで俺の区大会代表が決まったんだ。

そこから大会までどう過ごしたのかは覚えていない、練習も多分していないと思う。

気がつくと大会当日で日曜日の朝なんてとてもじゃないけど起きられる自信がなかったし、すごく眠い状態で大会へ行った記憶がある、そして忘れ物も沢山あった気がする。ゼッケンを止めるピンが無くて人から借りたり、

何よりも大会当日は小雨が降る雨だった、しかもいつも学校ではグラウンド(砂の上)か体育館での練習だった。

競技場ではタータンと言う合成ゴムを使用したグラウンドが当たり前で、そこをスパイクも使わず普通の運動靴で行う高跳びはかなり厳しかった。

更には雨の為、タータンと靴ゴムの相性の悪さは酷かった。

他校の身体の大きな男子達や挟み跳びではなくベリーロール使用して跳ぶのを見て竦んでしまった。

思った様な力が出せず3本跳べるにも関わらず、全てバーを引っ掛けてしまい最後の一本に限っては力んで転んでしまった為、僕の初めての大会は記録なしで幕を閉じた。

物凄く悔しかったし、情けなかったし、悲しかった。だけど、そんな感情を誰に見せられることも無かった、、相変わらず僕は感情を伝える言葉を持たなかったから、

この大会を最後に運動をしなくなった、、と言うか、本気でやらなくなった。どうせやっても上手くいかない、この程度で良いし、上には上がいる。

体を動かすのは相変わらず大好きだったけど、多くの挫折や自分の限界みたいなものをこの時期に決めてしまったんだと思う。

もっとあの時、励ましてくれたり、慰めてくれたり、メンタルをケアしてくれる大人達や仲間が周りにいたのなら…と、

たられば言っても仕方がない。、この時はどう生きていけば良いかなんて未だ分かる訳もないし、力がなかったのだから、、受け入れて認めていくしかないのだ。

次回、6年生。

 

 

夢見る子供達と多くの挫折(前編

人間は歳と共に自尊心が落ちて行く生き物だと聞いた事がある。

子供の頃は誰もが夢を見る。

宇宙飛行士、スポーツ選手、芸能人、消防士たくさんあるとは思う。

だけどその夢を叶えられる人間は一握りだろう。

ちなみに僕は小学校の卒業アルバムを見ると『ホテルのオーナーになりたい』と書いてあった😅

記憶を辿ると当時アニメで見ていた“21エモン”宇宙パイロットを夢見るホテルの跡取り息子のドタバタ系アニメなんだけど、

きっとこの頃から色んな人との出会いや接客を夢見ていたんだと思う。

俺のその後の未来は又改めて語る事になるけれど、世界各地から訪れるお客様を接客する事になるから、ホテルオーナーではないものの半分くらいは夢を叶えられていたのかも知れない。

さて、前回のブログでも少し述べたけれど、

俺は授業態度がとても悪く学力は全く評価されなかった、たまに良くて体育、音楽、図工、家庭科が2か3有れば良い方だった。

だから尚更勉強なんてしなくなっていったし同時にこの頃、家では義兄が女を作り妊娠させて俺の部屋に2人でどっぷりと住む様になり、勉強出来る環境すら整っていなかったから尚更しなくなっていった。

とにかく家にいるのが嫌で21時ごろまでは海堂といつも公園や何処かで遊んでいた(きっと彼も家にいたくなかったんだと思う、そんな家庭の悩みをお互い話す事もなく性で誤魔化し合ってた。

だけど部活動だけは違った。

運動会で一位を取れば注目されるし走れば大人達が才能を認めてくれた。

俺が初めてやったスポーツは野球だった。しかし顧問があの石野だ【深まる謀略〜参照】

運動の才能があった俺でもチームプレイはとても苦手だった。野球は特に攻守あって、打って走って、盗塁するのは凄く得意だったけど、守備に関してはホント駄目で、ゴロやフライが全然上手くならず、顔や股間にボールが当たる度に痛み対して恐怖心しか出て来なかった、まして顧問の石野に出来ない事を責められると尚更に自尊心はズタズタになって行ったから続けられる自信がなくなり自然とフェードアウトした。

次はサッカー部だった。

野球が足に変わっただけでドリブルしながらボールを保ってゴールに向かうのが凄く難しい、僕には出来なかったけどキーパーとして瞬発力でボールを目で追いゴールから守るのが楽しかった。

しかし試合の前日、スタメンのはずだった僕は自転車で転び大怪我をしてしまい補欠にその座を譲る事になった。

わざとではないのにも関わらずメンバー達からは逃げた等と言われたり、ばつが悪くなり続けられなくなった気がする。

小学生の多感な時期に運動部の中で多くの挫折を味わってきた。

そして最後に残ったのが走る事だけでも認めてもらえる陸上部だった、もう残された運動部が俺には陸上しかなくて始めたものの僕は50メートルなら誰にも負けなかったけど陸上選手(スプリンターになる為には最低100Mを10秒台で走らなければ活躍ができない、、残念な事に僕は11秒を切る事がなかなか出来なかった。

それを見越した顧問の先生は、僕を跳躍の選手に進めたのだ。

走り幅跳びか高跳びだった。

そこで僕は走り高跳びを選んだんだ。

後編へ続く、

 

 

 

 

転入生〜憤怒と解離。

5年生になり、僕は益々わんぱく盛りになって行く、

この頃には、夜寂しくて母の布団に潜り込む事は無くなったしオネショもしなくなって行った。

それでも3月生まれの僕は、発育が周りより遅く若干背も低い方だった。

そうそう、この時期海堂が何故だか少女雑誌である“りぼん”をよく読んでいて、その影響で俺は“なかよし”にハマっていたものだ。

でも男子達にそれがバレたら虐められると思ってひた隠しにしていたね、そこからアニメのセーラームーンが大好きになって毎週VHSで録画していたし初めてCDを買った気がする。

ここから俺の女性主人公アニメも好きになって行ったなぁ〜もちろんドラゴンボールの様なアニメも大好きだったのだけど。

美少女戦士!セーラームーン!月に変わってお仕置きよ!ってのはホント少年アニメとはまた違ったカッコ良さがあった。(この頃から女性の社会進出を象徴させていたのかも知れない)

部活動では主に陸上部に全力を注いでいた、

こんな問題児扱いされていた俺でも活躍の場を感じられたのはそこだけだった気がする。

どれだけ頑張っても態度が悪い僕の通知表は、ほぼオール1とかの評価だったからテストや勉強なんて益々しなくなって行ったし(こんな紙切れで評価されるシステムが子供の頃から納得行かなかった)

だけど運動だけは違った。

1番を取れば誰もが認めてくれるし頑張れる気がしたんだ。

機会があれば又、その話もして行きたいと思う。

本題に戻る。

5年生に進級し久々に海堂以来の転入生が隣クラスに来た様だ。

彼の名前は高田で育ちが良さそうな顔をしている鼻が高く少しインテリで(アニメのドラえもんで言う所のスネ夫の様な奴だ)スネ夫よりはルックスが良い男ではあるものの兎に角、俺からしたら鼻にかかる印象だった。

彼はマンション住みだがとても金持ちらしく上下階の2戸を1戸にリノベーションしている家だった。

彼は空手をやっている様で喧嘩も強い奴だと噂も有り少し警戒したりもしていた、

その時期、俺も斎藤【初恋は友愛?〜参照】の通う少林寺拳法に通って居た(あまり長続きはしなかったけれど)

そんな高田は直ぐに斎藤のグループ、すなわち俺の所属してる仲間内に入る事になった。

何やら出会った頃から俺と馬が合わない高田と、ある日曜日の学級開放日に校内で衝突する事になる。

※俺の視点だけしか語れないのでうろ覚えなのと暴力的な表現があるので気分を害してしまったら申し訳ないので先に申し上げます。

それは斎藤と高田に俺含む他に2〜3人いたと思う。

グラウンド横の日に当たらない遊具置き場での出来事だった。

そこでみんなで休んでいた、ヒエラルキーの様な力の強さの序列がそこには確かに合った。斎藤は山積みに置いてある木のザルの頂点で座って居て、俺はその少し下に居た(まるで猿山の猿たちの様な光景だった気がする)

そしたら突然、高田が『どけよ!』と言って突き飛ばしてきた。

俺は引くに引けなかった、ここでどいてしまったら俺の序列が高田より低くなるし、自分が築いてきた地位が脅かされると思ったんだと思う。

この頃、喧嘩なんてしょっちゅうしていたし(砂場でバトルロワイヤルなるものもやって必死に闘ってきた)俺からふっかける事は先ずないのだけど、基本痛いのが大嫌いなので避けられる争いは避けたかった、だから強いぞ!と言うその瞬間だけ見せつけられれば良かったんだ。本当は人を叩きたくないし、叩かれるのも真平ごめんだった。

俺を突き飛ばした高田は斎藤に向かってこう言った『コイツ、やっちゃって良い?』

(俺はすごく怖かった、やめて、やめてよ、斎藤、ダメって言って欲しいと頭の中で思うも、そうはならなかった)

斎藤は『良いよ』とだけ言った、その瞬間に高田が俺に殴りかかって来た。(この時程、斎藤を恨んだ事はない。

それは3年生の頃に身についた方法【義理の兄と秘密の友情〜参照】俺は良いか悪いか必ず人との距離を取る、だから取っ組み合いの喧嘩も嫌いだった、引っ掻かれたり、つねられたり、髪の毛を引っ張られたりと、とても痛いから。

でも、やはり空手をやっているだけあって高田も俺との距離を詰めてくる。あゝやっぱり、、取っ組み合いになってしまった。

(痛い、痛いよ、こんな事は早く終わらせなきゃ、)

その瞬間、俺は高田をトンボや箒が置いてある用具ロッカーに押し倒し追い詰めた、道具を薙ぎ倒す様に倒れ込んだ彼の横に散乱した一つのトンボを引っ張り高田の首をそれで上から軽く絞めた。(そうすれば動けなくなるだろうと思った)

しかし、高田は俺の左手に噛み付いてきた。

その痛みで俺は更に防衛本能が騒ぎ左手でトンボで絞めながら右手で奴の頭を髪の根本から掴みコンクリートに1発叩きつけた。

そして俺は泣きながらこう言った。

『謝れ!早く謝れ!』何度も奴の顔を叩きつけながら鼻血を流していた気がする。でも止められなかったんだ。、ここで離したら又、自分が痛い思いをすると思ったから、謝ってもうしないって言ってくれたらそれで終わる筈なのに、

周りにいた友達は誰も止めに入ってこなかった。

そのうち高田は動かなくなった気がするが、俺はトンボから力を抜くことは無かった…気がつくと用務員の叔父さんが俺を高田から引き離した気がする。

そこからは記憶がない。

あの時の俺は、ただ怖かったんだ。そんなことがしたい訳じゃ無かったし、止めて欲しかったし、、言い訳をしてもしてしまった事はどうにもならない。、

この事件をキッカケに俺は高田と卒業するまでギクシャクする様になったし、相手の親はもちろん俺を許さなかったと思う。(それもそうだ、、子供の喧嘩の域を超えていると思うし、下手したら殺していたのだから)

俺はこの件で更に問題児として先生や周りの人間に深い傷を与えると同時に、自分の中でも書いていて未だに胸が抉られる思いだから、

この時の担任だった5年生6年生を見てくれていた女性の天野先生は卒業式に1人1人に言葉をくれた。

彼女が俺に与えた言葉は呪いの様に感じた。

俺の顔に両の手を添えて彼女はこう言った『いい?貴方はどんな事があってもキレては駄目!分かった?!』俺は泣きながらコクンとだけ頷いた。

それは、俺にとって救いの言葉になったのかも知れないけど、大好きだった天野先生にはわかって欲しかったと言う、期待を裏切られた気持ちも同時に感じた。

俺は相変わらず自分の事を説明出来ない子供だった。

本当はこう思って、こう感じて居たんだよ、って今なら思える事が、あの頃には沢山あったにも関わらず何一つ説明できる力がなかった。

この現象を今振り返ると俺は痛みを感じると、直ぐに痛みをどこかに飛ばす癖が付いていた、それは解離という現象で虐待等で心や身体に強い痛みを幼少期に感じると自分で引き受けられない事から起きてしまう現象だと知った。

解離治療の話

時折バキって天然だよねって言われる事があった。天然な人は、実は子供の頃に強いストレスを感じていた人にしばしば現れる様だ。個性とも捉えられる場合もあるが、

解離性障害、解離性健忘とも言われる。

でもある程度、安心できる環境でトラウマ治療をすれば緩和されると知った。

自分の話してこなかった部分を人に話して行く事で自分に何が起きていたか、少しずつ知る事で乖離していた部分を補う事が出来るんだと。

それはとても怖い作業だし、本当にそれが真実なのかも分からない。自分自身で変えてしまって騙してしまう病気だから、

それでも話す事が良いとされている。だから、このブログを通して自分自身の治療にもなれば良いと思っている。

2022年2月から初めたこのトラウマ治療は始めた頃はグループの中で俺は毎日の様に途中でフラッシュバックして泣いてしまい話せなくなる日々が続いた、

それでも諦めず語ってきた。

出来る時は話す、ダメなら休む。

それはこのブログと同じ思いだ。

 

最後まで読んでくれてありがとうございました。

次回は部活の思い出を語ろうと思う。

 

 

 

初恋は友愛?孤独な世界。

僕は気が付くと好きになる対象が男になっていった。

基本的には大人の人に憧れを抱いていたけれど、そんな気持ちを伝えられる訳もなく、その中でも珍しく同級生を好き?になる事が度々あった。

それが今も友人である斉藤だ。(斎藤には未だに打ち明けた事はないし、今振り返るとリーダー格の1人である彼に嫌われないよう好かれたいだけだったと思う。

斎藤は背が小さく肌が白くて目は一重で何処となくクールなのだが頭も賢かった。(後に大人になって彼はメンサ会員になる。

MENSA(メンサ)とは、1946年にイギリスで創設された、全人口の内上位2%のIQ(知能指数)の持ち主であれば、誰でも入れる国際グループです。 メンサは、世界100ヶ国以上、10万人以上の会員を持つ国際的グループです。

【メンサのサイトから引用】

俺が、そんな斎藤を好きだと知っていたのは海堂だけだった。俺はプラトニックに斎藤と自転車の2ケツで俺が運転したりとか、そう言うじゃれあいが好きだったんだ。

それは決して恋とかではないんだと思う。深い友愛?の様な気もする。

俺が求めているのはやはり父親の様な存在なのだから、そのピースがハマる事は無かったのだろう。

なぜそんな斎藤を友愛し続けられたのかと言うと彼は女気が全く無かった。

俺はどんなに相手を気になっていても、浮いた話があると気持ちが耐えられなくなり自分から離れて行く、特に不倫や浮気とかは絶対に許せなかった。

何故なら前の家族を捨てた義父の事や、俺と母を捨てたアメリカ人の父の事を思いから不倫や浮気をしている人を見ると自分の心の傷がフラッシュバックされるのが耐えられなかった。

この時の僕は未だ彼等を赦す事が出来なかったんだ。

斎藤にはそれがなかった、だから安心して絡んで行く事が俺には出来たんだ。

彼女や好きな人がいる人はいずれ俺を見なくなる、自分に関心を向けられなくなる事が寂しかったんだと思う。

だからよく女子に嫉妬していた。

その時はよく分からない自分の感情に振り回されて女子をからかったり時には叩いてしまう事もあった。

僕は男性を好きになるのに、男子達は女子を好きになる。

そこに寂しさと、自分は他とは違うんじゃないか?と言う孤独感が益々自分を苦しめ学校では問題ばかり起こしていた。

特に女子達のスカートめくりを繰り返していて先生からも授業中に問題として取り上げられて次やったら、お前もスカートを履いて来いと言われ恐ろしくて、もうやってはいけないと思ったものだ。(スカートをめくった方々にはお詫びを申し上げます🙇)

それと未だに心に残っているのが、女子グループのボス格である今田さんを叩いて泣かせてしまった事だ、クラス中の女子に囲まれて「今田さんに謝って!」と皆に責められて俺が泣いてしまうと言う事があった。この一件から、もう女子は無闇に叩いては行けないと学んだ気がする。(今田さんあの時は本当にごめんなさい🙏)

加害の話はさておき、

海堂は僕の事を性処理としてしか見ていないので、僕が男性を好きになる事に全然理解を示そうとはしなかった。

けど僕はそれに腹を立てる事もなく、ただ聞いて貰えるだけでもその時は救われていたのかも知れない。

この気持ちを親にも誰にも相談出来る人が居なかったのだから、僕の中で何が起きていて何故?周りとズレてしまっているのか、全く分からずお手上げだった。

そして5年生になり大きな事件が起きた。

次回、憤怒と解離