バキマイストーリー

自分の人生を振り返りながら、苦しかった事、辛かった事、嬉しかった事と向き合って綴って行きたいです。

夢見る子供達と多くの挫折(後編

走り高跳びを選んだ。

そう、僕は走り高跳びを選んだんだ。

何故なら走り幅跳びも物凄く体力を使う為、何本も飛ぶ事が出来なかった。

顧問の先生は僕のスタミナのなさと跳躍力を見越してくれた。(顧問の先生は誰だったか全く覚えていない、、

それに僕は幼稚園から3年生頃まで女子達とゴム飛びをよくやって居たし、フィリピンでも母とやった記憶があるし母も跳躍運動が得意だった。

だから自然と走り高跳びに馴染みがあったんだと思う。

ただ、うちの小学校はベリーロールを推奨せず挟み飛びだった。

5〜6年生で高跳び選手として区大会に出られるのは1M25cmを超えられる選手だけだった。

もちろん僕はそれを裕に越えられる選手だったけどライバルが居て代表争いをする事になる。

そのライバルは友人でもある鷲尾と言う。

鷲尾は将来スタントを目指しスタントマンとして映画出演を経て今は忍者村で忍者として自分の夢を叶え活躍し続けている。

ある試合の1週間前、

僕は体調不良なのか部活を暫く休んでいたみたいで、『代表選抜があるから出てこないか?』と先生に言われ顔を出したんだ。

グループ活動が昔からすごく苦手で、多くの人の中で何かを取り決めて行ったり考えを出し合ったりが不得意で仕方がなく、すぐにグループを離れ1人になりたがってしまう癖は今も変わっていない。

そこでは皆んなが記録を出しあっていてトップが1M28cmを飛んでいた鷲尾だった。

そこで後からやって来た俺が25cmと28cmを一瞬で飛んだ(あれ?なんか今日は身体が軽い、どこまでも飛べる気がした)

先生が『30cmにチャレンジしてみようか?』と言う事でみんなが見守る中トライすると簡単に跳べてしまった。

しばらく練習していなかったし体力も余っていたのだろうか?

先生がもう一度と言って僕は又助走をつけて思いっきり地面を蹴って跳んだ。

この時程ジャンプをして気持ちいいと思った瞬間はなかったと思う、その後マットに落ちる感覚も含めて今でも覚えてる。

その瞬間、拍手が起こり先生が近寄ってきてこう言った『実は今のは1M32cmなんだよ』と、

これで俺の区大会代表が決まったんだ。

そこから大会までどう過ごしたのかは覚えていない、練習も多分していないと思う。

気がつくと大会当日で日曜日の朝なんてとてもじゃないけど起きられる自信がなかったし、すごく眠い状態で大会へ行った記憶がある、そして忘れ物も沢山あった気がする。ゼッケンを止めるピンが無くて人から借りたり、

何よりも大会当日は小雨が降る雨だった、しかもいつも学校ではグラウンド(砂の上)か体育館での練習だった。

競技場ではタータンと言う合成ゴムを使用したグラウンドが当たり前で、そこをスパイクも使わず普通の運動靴で行う高跳びはかなり厳しかった。

更には雨の為、タータンと靴ゴムの相性の悪さは酷かった。

他校の身体の大きな男子達や挟み跳びではなくベリーロール使用して跳ぶのを見て竦んでしまった。

思った様な力が出せず3本跳べるにも関わらず、全てバーを引っ掛けてしまい最後の一本に限っては力んで転んでしまった為、僕の初めての大会は記録なしで幕を閉じた。

物凄く悔しかったし、情けなかったし、悲しかった。だけど、そんな感情を誰に見せられることも無かった、、相変わらず僕は感情を伝える言葉を持たなかったから、

この大会を最後に運動をしなくなった、、と言うか、本気でやらなくなった。どうせやっても上手くいかない、この程度で良いし、上には上がいる。

体を動かすのは相変わらず大好きだったけど、多くの挫折や自分の限界みたいなものをこの時期に決めてしまったんだと思う。

もっとあの時、励ましてくれたり、慰めてくれたり、メンタルをケアしてくれる大人達や仲間が周りにいたのなら…と、

たられば言っても仕方がない。、この時はどう生きていけば良いかなんて未だ分かる訳もないし、力がなかったのだから、、受け入れて認めていくしかないのだ。

次回、6年生。