バキマイストーリー

自分の人生を振り返りながら、苦しかった事、辛かった事、嬉しかった事と向き合って綴って行きたいです。

初めての友達、痛みの消し方

幼稚園から小学校に入学する前に引っ越しをして区が変わった為、周りは保育園から仲良しと言う子達が多かった。

入学式に俺を転ばせて喧嘩した子(後藤)と呼ぼう、あれから気がつくと仲良くなって家も近く、朝の集団登下校も同じエリアだった。

伊藤が保育園から仲が良かったと言う(佐々木)と3人でよく遊ぶ様になった。

後藤は背丈が俺と同じくらい低く細身で良く日に焼けていた。虫や動物が好きな筈の彼は蝉に銀スプレーを吹きかけてマーキングしたり、幼虫を水に沈めたり等の時折見せる奇行な残虐性に違和感を感じながら何も言えないでいた、一軒家の呉服屋に住んでいる彼は、俺が居住しているマンションのベランダから裏庭の様子が見える程だ。

佐々木は色白で少しふくよかな(決して肥えていると言う訳ではなく身体も3人の中で少し大きい方だった。仏壇通りに住む仏壇屋の息子で6階建て位の自社ビルを持って居たが、彼は誰1人部屋に友達を上げる事はなく上がろうとするとキレる等してミステリアスな雰囲気がする奴だった。

3人でよく後藤の家で当時PCエンジンと言うファミコンの先駆けになるテレビゲームをやりに行ってた。

後藤の家には沢山の機器類があったブラウン管のパソコンもあったと思うが基本的に勝手に触ると怒るのでゲーム類は彼が全て支配していたと思う。思い通りに行かない事に俺は苛立っていた記憶がある。

後々自分もファミコンを手に入れると後藤の家には行かなくなった気がする。

うちの小学校は2クラスしかなかった。

1学年が30人だったと思う、60人くらいしかいないので割と覚えやすかった。もちろん全員と仲良しとは行かなかったものの、それなりに絡んだものだ。

学業の方はどうだったのだろう?2年生ごろ迄は言われた事をやれていたのだろうか?勉強をしていた記憶はあるし1人部屋を与えられてたので勉強机もあった。

低学年のうちは早く家に帰れる為、母も俺のご飯を用意してくれたりしていた。

でも基本的に夜は水商売で母は居ないし、たまに父が早く帰って来たりしていたと思う。

それでもうちには常に猫が居た。俺がいつも捨て猫を拾って来ては溺愛していた、それは幼稚園の頃も飼っていたと思う。その頃にいた子は茶トラでマイケルって名前だったと思う。

だから家で1人でも寂しくはなかった、いつも猫に話しかけて寂しさを紛らわしていたんだ。

それでも夜1人で怖いテレビを見ると、泣きながら母のお店に電話をした。母は「今からタクシーで来なさい」と言って俺は夜中21時ごろにエレベーターを降りて目の前の大通りでタクシーを停めて住所を伝えて母の店に良く行ってた。(今ならあり得ない光景だろうタクシーも普通は停まらない

ただ、この頃から宿題をしなかったりテストで悪い点を取ったりすると母がよく怒る様になった。

(母の過去の話をしたと思うが、学校や勉強に対して怒るのは母は家族の中でも一生懸命に勉強して大学を出て家族を救った背景があるからだと思う。

ゲームをずっとしてると父も怒る様になった。ある日ファミコンのアダプタをしまい忘れ放置していた所、踏んで大怪我をした父が血相を変えて俺の顔を叩いて来た。(父のプレゼントの話をしたと思う、父の意に沿わない玩具で楽しんでいる事に寂しさを感じさせてしまったのだろうと思う)

✳︎きっと父と母が俺に抱いてる期待とは異なる行動をしている事に頭を抱えてたと思うと胸が痛い、なんでもう少し2人の事を考えてあげられなかったのだろうと今なら思う。

母は怒るとベルトを持って来て俺の身体中を叩いたりベランダに出して鍵を閉めたり、クローゼットに閉じ込めたりする。

父は身体が大きく180cmはある、怒ると大きな手のひらで顔を平手打ちしてよく鼻血が出たりした。

俺は気がつくと、いつも家では怯えて泣く様になっていた。笑っている事もあったけれど寂しいか悲しいかの記憶の方が多すぎて笑顔の日が思い出せない程だ。

この時代は学校でも体罰が当たり前に横行していた。

安心出来る場所が何処にもなかったし子供の俺には何が悪くて、どうして行けば良いのか分からなかった。

両親が夜、家に居ないから宿題をしなくなったり、日本語があまり読めない母に学校のプリントを渡さなくなったり、

ゲームが問題の根源なら与えなければ良いのに泣き喚いて反省し可哀想に思うと許してもらい、そしてまた同じ事が起きる、そんな繰り返しだったと思う。

何よりも辛かったのは、学校で叩かれて居る事を親に相談できないし家で叩かれている事を学校にも相談出来なかった、そんな事を口にしたらもっと酷い目にあうと思った。

大人達は皆んな自分が悪い子だから叩かれて当然だと言う、僕が全部悪いから仕方がないと全て受け入れて来たんだ。

だからこそ僕は言葉を失い泣く事、怒る事、哀しむ事しか出来なくなってしまった。

そんな痛みから逃れる方法はその場は耐え凌ぎ、出来事や事実を無かったかのように心から切り離すしかなかった(実際は起きた事実を切り離す事なんて出来る訳がなく心の奥深くに閉じ込めていた)後にそれが解離を起こす事になるなんて、この時の僕には分からなかった。

余談だが、

偉い人(親や教師)が子供や弱い者を叩くと言う理不尽な文化は日本に根付いた独特な考え方や風習で、家庭内で起きる傷害罪は警察も介入しないってのが長年続いてきた。これがアメリカだったら親は直ぐに逮捕されて子供は保護される、それが正しいかどうかは分からないけれども、少なくとも子供に与えられる物理的な痛みは一時的に止められる。この痛みの期間が長いか短いかは大人になった時に大きな誤差になると俺は思う。

どうか、これからの時代は俺の様な子供達が少しでも早く救われる事を願いたい。