バキマイストーリー

自分の人生を振り返りながら、苦しかった事、辛かった事、嬉しかった事と向き合って綴って行きたいです。

ドキドキな大人ペニス

僕は相変わらず海堂の性処理を続けている。

365日ほぼ毎日一緒に過ごしているが、海堂の事はどうも好きになれなかった、何処か感情に欠落がある様に感じていたし、彼はモテていたけど容姿は好みじゃなかったと思う。

海堂は何処ででも俺を求めて来た、、公園の貝殻ジャングルジムの穴の中が1番ドキドキした、いつ誰に覗かれるか分からない(ん?俺はそのスリルを楽しんでいたのか?今となっては分からないが、今の自分なら彼と関係を持ち続ける事はしなかっただろう。いやでもきっと、この時からアナルプレイが出来ていたのなら俺は彼を使い続けていたかもしれない。そこは俺にも欠落があると思うから、

この時期同時に俺の中で大人たちへの見方も変わって行った。

あれだけ嫌っていた父や兄や学校の先生ですら、、憎しみという感情以上に身体の発育の部分に興味関心を示して行くようになっていた。

お陰で僕は大人達に叩かれ問題児だと扱われても明るく前向きで心が壊れないで済んだのかも知れないし、どんなに辛くても性を使う事で心や身体の痛みを快楽に変換する方法を知ったんだ。

ある朝、学校に行く準備の時に義兄がリビングのソファで上半身裸で下はジーパンの様なものを履いて寝ていた。

ジーパンは少しブカブカしており、その隙間から陰毛と立派に剥けているペニスが見えていた。、俺は一気に性の奴隷と化した…その光景たるや俺の身体は抗う事が出来なかった。

うちは父母共に裸族だった(その反面で俺は徹底して隠していた。

義理の父はそれは立派な物をぶら下げていつも歩いてたし、母は小柄割にはEカップくらいあっただろうか?いつも胸を出して歩いていたから見慣れてしまってた。

だから違う大人の男性のペニスを見た時に僕は凄く興奮してしまった。

義兄が寝ているリビングのソファ少し後ろのダイニングテーブルから、そのペニスを見ながら俺は自慰行為をしてしまった。、兄がいつ起きるか分からないし、寝室で寝ている母も起きない様に息を潜め静かにオナニーを済ませた。(ちなみにまだ4年生の僕には精通が来てなかった為、パンツが汚れる事は無かった。

その行為は兄が寝返りを打って見えなくなるまで続けていた気がする。

この頃の僕は毎朝寝坊し集団登校をしなくなり、いつも遅刻ギリギリに学校へ1人向かっていた。

朝ごはんも、自分でトーストを焼きバターやジャムを塗ったりピザトーストを焼いたり、ミロ(ネスレが販売していたカフェオレの様なもの)にお湯を注ぎトーストと食べるのだ。

普通の家庭だと親が全てやってくれるのが当たり前なのだろうけど、うちでは自分で出来る事は自分でやる習慣になっていたので、それが変だとか悲しいとかは微塵も感じていなかった。

この頃、朝のアニメ再放送で魔法使いサリータイムボカンシリーズもやっていて8時ギリギリまで家でそれを見ていると寝室で寝てる母が大きな声で「早く学校に行きなさい!!」と怒られて急いで出掛けたものである。

 

 

狂い出した歯車⚙️SEXワーカーの兆し

それでも俺が見ている世界は何一つ変わらない、相変わらず学校の大人達は僕に対し軽蔑の視線で問題児扱いをするだけで、何が起きているか何て誰1人聞いてこなかった。

家でも父は支配的で暴力は絶えない、

兄も母に対しての態度は変わらない、

あの時たった一言、誰でも良かった。

『大丈夫?」と聞いて欲しかった、

何かあったのか?もう心配いらないよって守って欲しかった、この苦しい世界から救い出して欲しかった、

変わって行くのは俺の中だけだった。

海堂との一件があってから俺の世界観はガラッと変わってしまった。

感情面は今までにないくらいドキドキする気持ちが芽生えるようになったし、好きな相手が誰かと話している事に嫉妬をするようにもなった。

行動面では、直ぐにペニスが勃起するし毎日の様に自慰行為をしたり毎日の様に求めて来る海堂の性欲求の解消をする様になった。

4年生に上がる頃には沢山の友人が出来た。

中でも今も付き合いが長い七瀬と斉藤は今でも親友と呼べる仲である。

しかしながら、、海堂の性の探究心はドンドン深まって行く(今思えば俺が答えるから助長させていたのだろうか?いや、そんな筈はない、、後から聞いた話、彼の犠牲になったのは俺以外でも女子達も沢山いた様だった。でもきっと、海堂とは俺が1番早くて長い関係だったと思う。

この年頃になると、友達の家でお泊まりをする様になったり、うちに泊まりに来る様になったりした。

大概、海堂も一緒だった。

海堂は、3人で寝る時に必ず俺を巻き込んで3pをしようとする。(俺はいつもそんな海堂が嫌で仕方なかった)

俺と海堂で挟む様にして、そのもう1人のペニスを勃起させ俺に触らせようとする。

本当に恥ずかしくて嫌だった。、2人きりで海堂の性の処理をするなら全然慣れてしまったのだけど。

奴は俺のペニスを触らなくなった(と言うのも俺が触らせたくなかった、俺は初めてのオーガズムの時に敏感になり過ぎて自分のを触られるのがくすぐったくて恥ずかしくて嫌だった。

それを海堂は察してくれたのか、自分のだけをして欲しそうにする様になったのだ。

ある、学校での泊まりキャンプの日の夜。

皆んなで雑魚寝しているのにも関わらず海堂がゴソゴソと俺の布団の中に入って来て抜いて欲しそうにしていた。

俺が『ここじゃ駄目だよ』と言うと、『トイレへ行こう』と言う、トイレへ行くなら怪しまれないかと思い2人でトイレへ向かった。

個室に入ると鍵をかけ、海堂は俺を後ろ向きにし壁に押し付けズボンを荒々しく下ろす、、すると俺のお尻の谷間に奴の太いペニスを押し擦り付けて来た。、(な!?こいつ、何処でこんな事を覚えたんだ)と思っていると、奴のピストンが激しくなり我慢汁で俺のお尻の谷間はグチャグチャになっていた。

俺は音が聞かれて先生に気づかれたらどうしようって思いながら、、恥ずかしながら『海堂、、はやく』と言うと、そのシチュエーションで上がったのか奴は俺の背中に大量の精液を撒き散らした。

凄く恥ずかしくて、ドキドキして、海堂をとりあえずトイレから追い出したと思う。、自分で背中の性液を拭き取りながら、俺はその後1人個室で自慰行為を始めた。

残念な事に海堂に対して恋としての好きだと言う感情はなかった、大人の男性や同じクラスの好きな男子生徒の事を考えながら自分は果てたのだ。

海堂からは求められるから答えているだけだった。相変わらず口下手で奥手なので海堂のそれが無かったら誰かに求められる事なんてないだろうって思っていたから、

今思うとこの経験が後のSEXワーカーとしての片鱗を見せ、お客様の性的欲求を解消する手立てになったのかもしれない。

俺は人に求められる事への興奮と、相手を満足させる事への快感をこの時に知ってしまったんだ。

 

 

続・秘密の友情〜初めてのオーガズム

海堂は『SEXって知ってる?』

と僕に聞いてきた。

 

もちろんこの時の僕にはなんの事だか全くわからない言葉を言われて、「んーん、知らない」と答えたと思う。

すると海堂は『じゃあ、SEXしてみよっか』と、おもむろに俺に近づいて来て、海堂は自分の下半身を僕の下半身に擦り付けてきた。

僕は立ったまま海堂がしている行為を、ただただ受けている。

一体何が起きているのか全く理解が出来ないのだけれど、ハッキリと分かるのは海堂の下半身が何やら凄く硬くなって居る事だ。

ズボンの上からでも伝わるソレは、もちろん俺も普段から良くおしっこをする時に使用するペニスである。

(でも、何でこんなに硬くなるものなの?)

しばらくすると海堂は、向こうへ行こうと言う、それは両親の寝室の奥にある押し入れの中だった。

その中には折り畳まれた布団が入っており子供2人がその上に乗るくらいなら十分過ぎるスペースだった。

海堂は服を脱いで、俺も真似る様に服を脱いだ、、まだ小学3年生の僕も海堂も白いブリーフを履いていた。

それから、海堂に誘われる様に押し入れに入ると襖を閉めた。

(暗くてよく分からないや、、)でも段々目が慣れてきた、僕が仰向けになっているとその上から海堂が重ね合う様にパンツの上から下半身を擦り合わせてくる。

自分のペニスが海綿体の充血によって硬くなる勃起という現象をここで知った。

初めて硬くなった自分のペニスに驚きを感じたのが忘れられなくて、海堂が何かしてる事になんて気が向かなかった。

とにかく自分の硬いペニスに更に硬い海堂のペニスが強く擦り付けられ続けた。

(小学3年生の2人は子供ながら互いに立派なペニスをしていたと思う、その時期に誰かと比べたりした訳では無いけれど海堂のペニスはとても太くて硬くてカッコよかった。自分も決して小さくはなかったけれど、この時はマジマジと見て測れる程の勇気も度胸もなかったし、僕は超が付く程シャイで奥手な性格だった。)

海堂は時には激しく、時には抱きしめられながら優しく責めてくる。

一定の刺激をペニスに受け続けていたら突然身体中が痙攣し敏感になり、ビックリした僕はそれ以上は彼の行為を受け続ける事が出来なくなってしまった。、何よりも自分の下半身が突然くすぐったくなったなんて恥ずかしくて言えなかった。

自分のペニスに何が起きているのか分からないまま、、『ちょっとトイレに行ってくる。』そう言ってパンツのままトイレに篭った。

膝がガクガクするし、お腹の少し下あたりがゾクゾクしペニスはジンジンする。少し自分で触ってみると敏感になりすぎて触ることすら出来ない、、

この時は分からなかったがオーガズムに達したんだ。

まだ小学3年生なので精通は来なかったがドライオーガズム(空射)と言う現象を僕は体験した。

 

義理の兄と秘密の友情

3年生に上がり、

後藤や佐々木以外の交友関係も増えつつあった。いや、むしろ彼等はコミニケーションを取るのが苦手な部類だった様でグループが分かれてしまった。

気がつくと勉強嫌いになってしまったが運動能力は高くてわんぱくなグループに所属する様になっていた。

運動会では常に1位を取るほど足が早かった。

2年生の頃は良く上級生からも虐められていた。

集団登校中にリュックを奪われて、俺に取り返されない様に囲まれてリュックをパスしあってる身体の大きな上級生達を見て(なんでこんな事するんだろ)と悲しくなったものだ。

喧嘩は身体が小さくて未だ勝てないし何よりも肉体が傷付くのは痛くて嫌だった、その時は泣く泣くリュックを諦めて、知らないマンションの屋上へ逃げ込んで1人泣いて居ると、学校まで送り届けないといけないのにと困った上級生達が探し回って居るのを知って(そうか、体格で勝てなくても困らせる方法があるんだって)学校でのサバイバルスキルが身について行った。きっと良い方法ではないけど、この頃の俺が生き残る為には必要な方法だったんだ。

3年生になった僕は怖いもの知らずだった、

クラブ活動で筋力も付いて運動能力が凄く跳ね上がったと思う、とにかく足が早かった。

スポーツテストでも50M走はこの頃で7秒台だったと思う。ちなみに6年生の頃は陸上部でのタイムは50Mが5.8秒だったのを覚えてる。が、、正式な競技になると100M走になる。そうなると一気に失速して、11秒台になってしまうのだ、それを先生は見越して俺には跳躍選手を勧めたので高跳びの選手に抜てきされて区の代表にはなれた。

話は戻るが、

とにかく足の速い俺は、上級生なんて目じゃなかった。体格では勝てないので、とにかくヒット&アウェイ、石や犬の糞を投げつけては距離を置いて逃げると言う戦法が見事に上級生に刺さったのだ。

普段から鬼ごっこやドッヂボールでも瞬発力も凄く良かったので誰かに捕まる事もまず無かった。

このお陰で誰からも虐められる事はなくなったのだ。この学校では力こそが絶対だった、じゃないと虐められる、とにかく俺は生き残る事に必死だった。

そんなある時、気がつくと家に知らない叔父さんがやって来た。

義父の息子(直人)だと言う、義理の兄になる為その人の事を俺は「お兄ちゃん」と呼んだ。一緒の部屋で寝泊まりする事になり、俺はベッドで寝ていたが正人は下に布団を引いて寝ていた。たまに気を使ってリビングで寝てくれてたりもしていた。

直人は見た目が坊主でメガネをしており身体は細身でヒョロっとしていた、それでも俺には大人に見えていたが年齢は20代中頃だろうか、

俺に対してはとても優しい義兄だった。

ただし、母に対してだけとても厳しく当たる事があり、幼心ながらその時だけはいつも義兄に対して殺意を抱いたものだ。(だって俺の大事な母を傷つけるのだから耐えられなかった。)

ある日。直人と母が台所で言い争いをしていた。

その兄を止めようとした時に「あっち行け」と突き飛ばされた俺に、母が「バキに手をあげるのはヤメテ!!」と叫んでいた。

俺は兄の力に勝てなくて部屋に押し戻され扉を閉められた。

その後に台所で大きな食器の金属音や、皿が割れる音がしながら母が泣きながら「ヤメテー!」と助けを求めている、俺の名前を呼んでいる…だけど力で勝てない無力な自分は何も出来ず扉の向こうで叩かれて泣いている母と一緒になって泣く事しか出来なかった。ホントにホントに悔しくて仕方がなかった、、

※6/13(火)このシーンを思い出して書いている時に過呼吸になりフラッシュバックして大泣きしてしまった。

そして、この時の記憶を僕は書き換えた、包丁を持って母を救おうとしたって、何も出来なかった訳じゃないって、、嘘の記憶にして蓋をしたんだ。

3年生は自分にとって大きなターニングポイントが沢山あった。

その年の春休みの後か夏休み前だったか(記憶が定かではないが、

学校の帰りに真横にある公園を通って帰ろうとした時だ、見掛けない子が1人砂場で砂遊びをしているのを、何故だか気になった僕は一緒に砂遊びを始めた。

特に会話をする訳でもなく、同じ砂場で山も作って川を流して気がつくと夕暮れ時になるまで2人で作業をしていて凄く楽しかった記憶がある。

その翌日、隣のクラスに転校生が来たとの事で昼休みに見に行くと砂場で一緒に遊んだその子だった。

彼と出会って2年後くらいに違う男性と母親が結婚し海堂(カイドウ)と言う名前になる、彼の家庭環境も複雑だった母親が俺と同じ水商売だったし同じ様にマンションの鍵っ子だった。

海堂は学校の目と鼻の先のマンションに住んでおり、直ぐに仲良くなった2人は学校帰り彼の家に行く事になった。

海堂のマンションは1LDKの間取りで自分の部屋は無くリビングの片隅に彼の勉強机が置いてあったと思う、そのリビングの襖の先に両親の寝室があり、うちの母の様に化粧台が置いてあった。(僕のマンションはURで2LDKだから彼の家が少し狭く感じた)

彼は麦茶をコップに入れて俺に出してくれた、それを飲み干すと程なくして彼はこう言った。

「ねぇ、SEXって知ってる?」

と、3年生の僕には何の事だか全く分からなかった。

後編へ続く。

 

深まる暴力と赦せる心。

2年生になる頃の話をもう少ししたいと思う。

集合写真を見てじゃないと俺もあの頃に何が起きていたのか全く思い出せない、記憶が途切れ途切れで友達との事を思い出そうとしても頭の中に霧がかかった様にモヤつき、そして蘇ってくるのは深まる大人達の暴力の記憶。

1年生の担任の先生は萩原(ハギワラ先生だ。

萩原先生はメガネでロマンスグレーの少しダンディーな先生だ決して体格が良い訳ではないが部活の顧問もしていてバランスの良い50代中頃の風貌だ。よくゲンコツ👊を貰った物だが特段、嫌な感じもなかった。ただ怖かったのは、ある生徒が授業中に紙ヒコーキを飛ばしていたら萩原先生が無言で立ち上がり、その生徒の襟元を掴んで机を薙ぎ倒しながら軽々と廊下に放り投げていた事だ。

その光景には恐怖心が芽生え、萩原先生の前で紙ヒコーキを飛ばそうと思う奴はもう現れないだろう、俺じゃなくて良かった…と心から思った(笑

そして何事も無かったかの様に又授業が始まるのが何とも恐ろしく…あの光景が脳裏に焼き付き勉強に身が入らなかったのを覚えている。

だとしても、普段の萩原先生は物凄く優しくてカッコ良くて笑顔が素敵で、こんなお父さんだったら良いなと父親像を重ねていたと思う。

※この時まだ僕は、性に目覚めていないにも関わらず大人の男性に父の姿を重ねたりしてたんだと思った。

2年生になった時の担任は石野(イシノ)という先生だ。

石野は他の先生とは違う何処か嫌な雰囲気がした。メガネをかけているが体格もガッシリしていて髪は80年代のサラリーマン風に横に流している、野球部の顧問でもあり熱血で理不尽で男子生徒には暴力と支配を、女子生徒にはセクハラとも思えるくらい距離感だったのを覚えている。

見ているだけで気持ちの悪さが伝わってくるくらい女子にはベタベタしていた。(思い出すだけで今でも嫌悪感を感じる)

石野は男子生徒なら見境なく手を挙げる、凄く記憶に残っているので先の話をするが四年生の頃だったと思う、体育授業中のランニングの時だ隣の子に話しかけられた僕は、話しながらランニングをしていた。隊列を乱さず皆んなゆっくりしたペースで走っていた、バコーン!!その瞬間景色が真っ白になり、気がつくとグランドの上に砂まみれになって横たわって居た。顔がジンジンするし頭がグラグラする…耳鳴りも酷くて、軽く脳しんとうを起こしていたと思う。

その後、誰かに呼びかけられ気がついた。とても怖くて恐ろしくなった俺は、フラ付きながら体操着のまま家に帰ろうとするも、石野から逃れる事はできず保健室へ連れて行かれた。

もちろん、なんの説明も出来なかったし、その時は今ほど何が起きていたのかも分からなかったからだ。何やら保健室の先生が俺の顔を治療をしてくれているが放心状態だった、この時は泣く程の感情がないくらい心が疲弊していた。

その時の事をある生徒が教えてくれた事があって、石野が俺をぶん殴ると俺は数メートル程吹っ飛んでたと教えてくれた。なんとも恐ろしい話だ、大人の力で子供を殴れば一歩間違えれば死んでいただろう。(神様が丈夫な体を与えて下さった事に感謝します。

その日家に帰宅すると、

直ぐに母が俺の顔の異変に気付いた。それもそうだ、朝送り出した時に見覚えのないアザが確か左頬にガッツリと浮き上がっていたのだから、

母は直ぐ様『誰にやられたの?!』と問いただしてきたがその時、一回は誤魔化した気がする、、母に心配かけたくないし迷惑も掛けたくない、何よりも石野の暴力と支配がとてつもなく怖かった。

でも母は引かず『嘘!誰にやられたのか正直に言いなさい!』と言われてようやく溜まっていたものが溢れ出して大泣きしたのを覚えてる。

凄く怖かった、吹き飛んだあの時も、母に伝えてる今この時も、そして明日以降もどうなるかと考えると恐ろしくて学校へ行くのがとても怖くなった。

泣き止むとようやく母に何があったのかを説明したんだと思う『石野先生に殴られた』そう伝えると母は凄く怒って学校に連絡を入れていたと思う。

そして直ぐに、その日が訪れた。

俺は怯えながらも母と2人で学校へ向かった、時間帯は良く覚えて居ないが職員室横の校長室へ行くと別室を用意しているというので案内されて少し大きな視聴覚室だったかも知れない部屋に通されると、そこには石野ともう1人先生が居た気がする。

身がすくんでいる俺を尻目に母は構わずに入って行く、、俺の中には先日起きた事がまだ脳裏や身体に残っていて怖くて目も合わせられず、石野と対面に案内された席に座り母の隣でずっとうつむいていた。

何やら大人達が話をしているが俺には全く耳に入ってこないが時折、市野が『申し訳ない』という言葉を耳にしてビクッとしてしまう、あの低く濁った声を聞くだけで怖くて仕方がない。

すると母が『うちは、私がしっかり叩いて教えていますから、先生が叩く必要はありません!大事にしてる子供の顔をなんで叩くんですか?』

(母よ嬉しいけども出来れば家でも叩かないでくれ、、と今ならツッコミを入れられるのだが)

俺は終始うつむいたままいた、、何かしらのやり取りが終わったようだ。

その後、石野から俺に対する体罰行為は無くなった。

無くなったのだが、しかし!

彼は変わる事は無かった、俺に対してだけやり方を変えて来たのだ。

とある日、僕は又何かしら問題を起こしたとの事で石野は授業中皆んな注目させるように 『バキその場で立て!お前は悪い事をした、でもお前を殴ると母ちゃんが出てくるから、このクラスでお前と仲のいい奴を3人選べ!お前の代わりにそいつらを殴る』 と言い出した。

一体この人は何を言っているんだ?本当に理不尽な奴だ、そういう問題じゃないのに。

石野はただ単に俺を殴らなくなったと言うだけで体罰をやめると言う選択肢はなかったのだ。

それから俺は3人の名前を口にする他無かった…言うまで帰らせない、みんなの授業の時間をお前が奪ってると責め立てられ、勉強をしたいクラスの数人からも「バキ早くしてよ〜」と言われ、名前を口にした友人3人からも後から責められる事になった。

石野は肉体的な苦痛が与えられなければ、精神的な苦痛を与えれば良いと思っている人間だった。

ただ、この話の未来には少しスッキリした結末がある。

それは俺が小学校を卒業してから数年経って風の噂で聞いた話だ。

平成になり世の中は少し良い方向へ進んだんだと思う『石野が体罰問題で飛ばされたらしいよ?』と聞いた時、心の中で(やっとか…)と安堵したのを今も忘れない。

その後、成人した俺は小学校の同窓会でゲストとして呼ばれていた石野と再開した、白髪混じりで少し衰えてた彼を見て、小さくて怯えてたあの頃と違って、彼の暴力にもう恐れる事もないと心の中で赦せたんだと思う。

その時に俺の中で起きていた彼への恨みの支配から完全に解き放たれた気がした。

※かなり話が飛んでしまって申し訳ない、今まで語れなかった事を沢山残せた事に感謝します。

初めての友達、痛みの消し方

幼稚園から小学校に入学する前に引っ越しをして区が変わった為、周りは保育園から仲良しと言う子達が多かった。

入学式に俺を転ばせて喧嘩した子(後藤)と呼ぼう、あれから気がつくと仲良くなって家も近く、朝の集団登下校も同じエリアだった。

伊藤が保育園から仲が良かったと言う(佐々木)と3人でよく遊ぶ様になった。

後藤は背丈が俺と同じくらい低く細身で良く日に焼けていた。虫や動物が好きな筈の彼は蝉に銀スプレーを吹きかけてマーキングしたり、幼虫を水に沈めたり等の時折見せる奇行な残虐性に違和感を感じながら何も言えないでいた、一軒家の呉服屋に住んでいる彼は、俺が居住しているマンションのベランダから裏庭の様子が見える程だ。

佐々木は色白で少しふくよかな(決して肥えていると言う訳ではなく身体も3人の中で少し大きい方だった。仏壇通りに住む仏壇屋の息子で6階建て位の自社ビルを持って居たが、彼は誰1人部屋に友達を上げる事はなく上がろうとするとキレる等してミステリアスな雰囲気がする奴だった。

3人でよく後藤の家で当時PCエンジンと言うファミコンの先駆けになるテレビゲームをやりに行ってた。

後藤の家には沢山の機器類があったブラウン管のパソコンもあったと思うが基本的に勝手に触ると怒るのでゲーム類は彼が全て支配していたと思う。思い通りに行かない事に俺は苛立っていた記憶がある。

後々自分もファミコンを手に入れると後藤の家には行かなくなった気がする。

うちの小学校は2クラスしかなかった。

1学年が30人だったと思う、60人くらいしかいないので割と覚えやすかった。もちろん全員と仲良しとは行かなかったものの、それなりに絡んだものだ。

学業の方はどうだったのだろう?2年生ごろ迄は言われた事をやれていたのだろうか?勉強をしていた記憶はあるし1人部屋を与えられてたので勉強机もあった。

低学年のうちは早く家に帰れる為、母も俺のご飯を用意してくれたりしていた。

でも基本的に夜は水商売で母は居ないし、たまに父が早く帰って来たりしていたと思う。

それでもうちには常に猫が居た。俺がいつも捨て猫を拾って来ては溺愛していた、それは幼稚園の頃も飼っていたと思う。その頃にいた子は茶トラでマイケルって名前だったと思う。

だから家で1人でも寂しくはなかった、いつも猫に話しかけて寂しさを紛らわしていたんだ。

それでも夜1人で怖いテレビを見ると、泣きながら母のお店に電話をした。母は「今からタクシーで来なさい」と言って俺は夜中21時ごろにエレベーターを降りて目の前の大通りでタクシーを停めて住所を伝えて母の店に良く行ってた。(今ならあり得ない光景だろうタクシーも普通は停まらない

ただ、この頃から宿題をしなかったりテストで悪い点を取ったりすると母がよく怒る様になった。

(母の過去の話をしたと思うが、学校や勉強に対して怒るのは母は家族の中でも一生懸命に勉強して大学を出て家族を救った背景があるからだと思う。

ゲームをずっとしてると父も怒る様になった。ある日ファミコンのアダプタをしまい忘れ放置していた所、踏んで大怪我をした父が血相を変えて俺の顔を叩いて来た。(父のプレゼントの話をしたと思う、父の意に沿わない玩具で楽しんでいる事に寂しさを感じさせてしまったのだろうと思う)

✳︎きっと父と母が俺に抱いてる期待とは異なる行動をしている事に頭を抱えてたと思うと胸が痛い、なんでもう少し2人の事を考えてあげられなかったのだろうと今なら思う。

母は怒るとベルトを持って来て俺の身体中を叩いたりベランダに出して鍵を閉めたり、クローゼットに閉じ込めたりする。

父は身体が大きく180cmはある、怒ると大きな手のひらで顔を平手打ちしてよく鼻血が出たりした。

俺は気がつくと、いつも家では怯えて泣く様になっていた。笑っている事もあったけれど寂しいか悲しいかの記憶の方が多すぎて笑顔の日が思い出せない程だ。

この時代は学校でも体罰が当たり前に横行していた。

安心出来る場所が何処にもなかったし子供の俺には何が悪くて、どうして行けば良いのか分からなかった。

両親が夜、家に居ないから宿題をしなくなったり、日本語があまり読めない母に学校のプリントを渡さなくなったり、

ゲームが問題の根源なら与えなければ良いのに泣き喚いて反省し可哀想に思うと許してもらい、そしてまた同じ事が起きる、そんな繰り返しだったと思う。

何よりも辛かったのは、学校で叩かれて居る事を親に相談できないし家で叩かれている事を学校にも相談出来なかった、そんな事を口にしたらもっと酷い目にあうと思った。

大人達は皆んな自分が悪い子だから叩かれて当然だと言う、僕が全部悪いから仕方がないと全て受け入れて来たんだ。

だからこそ僕は言葉を失い泣く事、怒る事、哀しむ事しか出来なくなってしまった。

そんな痛みから逃れる方法はその場は耐え凌ぎ、出来事や事実を無かったかのように心から切り離すしかなかった(実際は起きた事実を切り離す事なんて出来る訳がなく心の奥深くに閉じ込めていた)後にそれが解離を起こす事になるなんて、この時の僕には分からなかった。

余談だが、

偉い人(親や教師)が子供や弱い者を叩くと言う理不尽な文化は日本に根付いた独特な考え方や風習で、家庭内で起きる傷害罪は警察も介入しないってのが長年続いてきた。これがアメリカだったら親は直ぐに逮捕されて子供は保護される、それが正しいかどうかは分からないけれども、少なくとも子供に与えられる物理的な痛みは一時的に止められる。この痛みの期間が長いか短いかは大人になった時に大きな誤差になると俺は思う。

どうか、これからの時代は俺の様な子供達が少しでも早く救われる事を願いたい。

入学式と怒りのランドセル

前書き)話は遂に小学校へと進む、実は過去にも性の目覚めを書こうと思い立った事があり、、どうしても書き続ける事が出来なくなってしまった。それだけ俺にとって小学校の体験は辛く苦しい出来事が多かった。でも逃げずに向き合って行きたいと思う、今は多くの言葉を学び支えを得た、全ては過去の経験で今ではない恐れるものは何もないのだから。

小学校の記憶は前後したり混濁している所もあって分かりにくいかも知れないけど目を通してくれたら嬉しい。

入学式

母と2人で真新しいリュックを背負って桜舞う🌸校舎へ足を踏み入れると自分と同じ様に指定された制服を着てお母さんと手を繋いでいる子供達の姿が沢山あった。

それから一旦親から離れ自分達がこれから使う教室へ向かう途中の、

その時、

『おい!お前!何で女が黒いランドセル背負ってんだよ!』と1人の男の子が急に俺のランドセルを引っ張り転ばされた。

その時に初めて怒りと言う感情が込み上がって来た、母に買って貰ったランドセルを傷付けようとして来た事に対して凄く腹が立った。

入学式前日の夜に家で制服を着てランドセルを背負い鏡に映る自分を見て母が褒めてくれた事、その母の思いをも踏みにじられた気分だった。

腹が立って涙が出てきた、それから直ぐに取っ組み合いの喧嘩になったと思う。そこからはあまり記憶がない、、騒ぎに気付いた大人の人が止めに来たとは思うが自分に何が起きたのか当時は誰にも説明が出来ずに居た、

この日から俺の戦いの日々が始まった。

やられたらやられっぱなしだと周りはドンドンエスカレートして行く、学校にいる間は自分の身は自分で守らないとココで生きて行く事は難しいんだと思った。

ただでさえ、周りの子達と見栄えが違い肌は白く、髪の毛は栗色、目も大きくブラウン、3月生まれで他の子達より身体は小さくエキゾチックな雰囲気だった為に周りも戸惑ってしまうのはしょうがないだろうし、その学校では外国人の子は俺くらいしか居なかったのだから。

それから毎日の様に喧嘩やトラブルが絶えず、先生達からも外国人の問題児扱いされる様になって行った。

その入学式の帰り道だったと思う、

母と手を繋いで帰る途中数人の男の子達が俺と母に対して、

『がいじん〜がいじん〜!』と言いながら石を投げて来た。

それを母は黙って見過ごさず、その子達を追いかけて注意しようとするも皆んな一目散に逃げて行った。

そんな母を見て恥ずかしくも悔しい気持ちになった、母にそんな事をさせてしまった自分に酷く責任を感じたりもしていて辛かったんだと思う。

今だったら母と2人でたわいない話をし笑いながら、彼等に対し健康な心になれる様に祈りを捧げるだけだろう。

小学校入学の初日から散々な思いをして行くのであった、、これから起きる数々の出来事をこの時の僕はまだ知る由もない。